2018年2月2日金曜日

あっぱれ、久々に見た、こういうサブカル蔑視

「アニメファン反発『映画ランキングの対象外に』の理由に納得せず」
とある老舗映画批評誌が、アニメは論評しないとした、それにアニヲタが抗議、というニュース.

いや~、こういうの久しぶりだなぁ.
メインカルチャーとサブカルチャーを区別する物の見方にメディアが固執する場面を2018年になって見れるとは思わなかった.ある種の感銘を覚えた.

------
昔は、ヲタクは肩身が狭かったといわれる.

わたしは、ヲタク蔑視なんかものともせず、あっけらかんとアニメのXXXが面白いぞなどと語るスタンスで子供の頃から生きてきたので、周囲からは手が付けられないバカと思われていた可能性が高い.もっとも、小学生高学年の時期にヤマトが大ヒットした世代なので、自分以外にも一定数のヤマトファンは存在していたが.

一方で、モテる男を自認していたようなクラスメートはアニメや漫画の話題なんかタブーであるというスタンスが必須という行動様式を堅持していたように見えていた.

1980年代初頭頃までは、アニメなんかに興味津々な奴はどこか狂っていると看做されるのが社会通念だったと思う.

こういう非ヲタによるヲタク蔑視行動が何に端を発していたのかをわたしが想像するに、アニメだとか漫画は唾棄すべき劣等趣味であるなどと言う確固たる差別意識が非ヲタの彼らに在ったとは全く思えないのだ.
なぜなら、1970年代に既にアニメに狂っていたわたしの視点から非ヲタの彼らを思い起こすに、非ヲタの彼らから差別意識を持てるだけの知性を感じられないからである.差別意識というのはある意味で高度な知的作業であって、自他の得失を分析できるだけの知性が無ければ差別意識が表層意識に上がってくる事もありえないはずだ.
ところが非ヲタの興味対象は、ジャイアンツ・大相撲・山口百恵・郷ひろみ・太陽に吠えろ であって、マスメディアが提供するメインディッシュをうまうまと消費してるだけで、そういうのには知性を感じない.知性が感じられないのだから、差別意識も無かったのだろう、となる.

ヲタク蔑視が差別意識に依らなかったのなら、なぜかつてはヲタク蔑視が在ったのか?
わたしはこう思う.
メインカルチャーとサブカルチャーの相克が1970年代以前には在って、サブカルチャーは暗黒面であって、サブカルに堕ちたら低レベル人間になってしまうという茫漠たる怖れがあって、しかし不思議なことにメインカルチャーの定義が茫漠としていて誰にもわからない.
だから、分別のあるモテ男たる者ならば、とりあえず「巨人大鵬卵焼き」というポジションを取っておくことで精神的平穏を得る.

なんか主体性が感じられない.自分の好みぐらい自分で考えて決めたらどうだい?

メインカルチャーとサブカルチャーの相克は何に由来していたのか?
そういうメンタリティを理解できないわたしに理解できるわけもないのだが、村社会を堅持するには、仲間内(メイン)と部外者(サブ)という二項対立概念を堅持しなければならなかった旧い時代の名残ではなかったかと思うのだ.

ちなみに、わたしの父親は重症のメインカルチャーマスターべーション人間だった.現在進行形のカルチャーをメインもサブも全部否定する.故にTV番組は全部否定の攻撃対象.「巨人大鵬卵焼き」も攻撃対象なのでアンチジャイアンツ.そんな彼が高尚な趣味と自認していたのが、モーツアルト・懐メロ・笑点、なのだから目が点になってしまう.つまり古典なら何でも正しいという価値判断丸投げが彼の正体だったのだ.それでいて自分はカッコイイと自己陶酔しているのだから、サブカル全開なわたしから見るとキチガイ以外の何者でもなかった.

やがて、アニメというサブカルチャーへの警戒心が若い世代から消滅してしまう事件が起きた.ガンプラである.1981年ごろからガンプラブームは始まった.
任天堂のファミコンもTVゲームというサブカルチャーへの警戒心を根こそぎ消し去った.
いまやその世代が企業の広報担当役員だったりするし、国会議員だって「ザクとは違うんだよ」が通じるようになっている.

サブカルチャー体質のわたしは今、「サブカルは何処に行ったのだろう?」としばしば思う.何処にもサブカルが見当たらないのだ.こうも人々がサブカルに寛容になってしまっては、サブだのメインだのという対立概念はもはや通用しない.
強いて言えば、新宿などにあるライブハウス「Loft」のパンフを見ると、ここにはまだサブカルがあるなぁ、などと少し思うくらいだ.Loftのパンフを見ているとなんだか楽しい.

------
冒頭の、老舗映画批評誌がアニメは論評しない、とした件に戻る.

その雑誌に関係する人の年代と主張はこうだ.
  稲川方人  1949年生     →アニメは映画ではない
  荒井晴彦  1947年生     →アニメは映画ではない
  河村雄太郎   不明        →アニメは映画ではない
  寺脇研     1952年生     →ここは実写だけと宣言するだけでいい
  吉田広明  1964年生     →アニメを除外するな

各位の主張を見ると、やっぱり年寄りってバカだなぁと思う.
・年寄り3名が映画の定議論を展開しているけど、そんな論理では何の決着もつきはしないさ.愚かな行為だ.
・フランス映画は観るけどハリウッドは観ないという寺脇もアニメを除外することに賛成と推測する.本誌は実写専門誌と宣言すべしという寺脇の主張は妥当である.
・わたしと同年の吉田は何でアニメを除外すんだよと文句言ってるw

吉田は高校生でガンプラを体験した世代ゆえ、サブカルへのnegativeさを感じていないようだ.

1949や1947年生まれの2名および、生年不詳の1名は、「だってアニメってサブカルでしょ?」という村社会の二項対立概念から解脱できてないように見受けられる.無意味なこだわりでバカだなと思う.死ぬまで治癒しないだろう.

件の雑誌の収益のためにはアニメ解禁が好ましかろうが、頑なにアニメを拒み通すことで衰退する権利は当然ながら雑誌の作り手に在る.商業的に死にたいならお好きにどうぞ.そして同人誌へと縮退してください.その先で待ってるのは貴方達が忌み嫌うサブカルなんじゃねぇの?www

メインカルチャーとサブカルチャーの区別撤廃を推進したのは商業メディアでもあった.アニメージュ然り、ひょっとするとAKBもそうなのかもしれない.(AKBってストリップ小屋のマーケティングみたいだとかねがね思っているんだ)
2018年にもなって、メディアの隅っこにメインvsサブの区別に固執する者達の姿を見れるとは、、、オレは感銘を受けたぞ.

エイメン

0 件のコメント:

コメントを投稿